LOGIN「……私と、ですか?」 「ええ」 悠臣は静かに頷いた。「仕事でお話しする時間も、こうして仕事とは関係のない話をする時間も、私にとっては大切なものです」 穏やかな声だった。 けれど、その言葉には、いつもの仕事上の気遣いとは違う何かがあった。「澪さんと話していると、もっとあなたのことを知りたいと思うんです。何が好きなのか。どんなことをしていると楽しいのか。これから、どんなことをしてみたいのか」 澪は、言葉を失った。 そんなことを訊ねられたのは、いつ以来だろう。 自分の好きなもの。 やってみたいこと。 これからの人生で、何を大切にしていきたいのか。 考えてみれば、最近はそうしたことを、誰かに話すどころか、自分自身に問いかけることさえなかった。「……悠臣さんは、私のことを、そんなふうに考えてくださっていたんですか?」 「はい」 彼は迷わず答えた。 そして、少しだけ困ったように笑った。「本当は、もっと早くお伝えしたかったのですが」 澪は彼の顔を見つめた。「どうして、今まで……?」 問いかけたあとで、はっとした。 自分はさっきまで、智也の妻だった。そのことを、悠臣は誰よりも理解していたのだろう。「澪さんが結婚されている間は、伝えるべきではないと思っていました」 悠臣は視線を逸らさず、噛みしめるように言葉を口にする。「私は、あなたを大切に思っています。だからこそ、あなたが結婚している間に、その気持ちを押しつけることはしたくありませんでした」 澪の胸が、静かに揺れた。「誰かの大切な関係を、自分の気持ちを理由に踏みにじるようなことはしたくなかったんです」 その言葉は、澪にとって思いがけないほど重みを持って響いた。 悠臣は澪が苦しんでいた時間を、自分のために利用しようとはしなかった。 離婚を迫ることも、智也との関係を責めることも、彼女の心に入り込もうとすることもなかった。 ただ、彼女が自分自身で決断するまで、ずっと待っていた。「……ありがとうございます」 澪の口から出たのは、そんな言葉だった。 悠臣は少しだけ目を細めた。「お礼を言われるようなことではありません。私がそうしたかっただけですから」 それから、彼は一度息をついた。「私は、澪さんが好きです」 飾り気のない言葉だった。だからこそ、澪の心にまっすぐ届いた。
十九時少し前。澪は研究所のロビーにある鏡の前で、最後に身だしなみを確認した。 夕方、思い切って買ったワンピース。仕事へ行くときとは違う服に袖を通すだけで、いつもの自分が少しだけ違って見える。 派手ではないけれど、落ち着いた色合いと柔らかなシルエットが気に入っていた。 誰かと会うために、こんなふうに服を選んだのはいつ以来だろう。 考えかけて、澪は小さく笑った。 今は、昔のことを思い出さなくてもいい。 今日という日を、今日の自分のために楽しめばいいのだから。 スマートフォンが震えた。『到着しました。急がなくて大丈夫ですので、ゆっくりお越しください』 悠臣からのメッセージだった。 澪は鞄を手に取り、研究所をあとにした。 *** 建物の前には、悠臣の車が停まっていた。 澪が近づくと彼は車から降り、穏やかな笑みを浮かべた。「こんばんは、宮坂主任」 「こんばんは。お待たせしましたか?」 「いえ、ちょうど着いたところです」 そう答えた悠臣は、澪の姿に目を留めた。 ほんの一瞬。けれど、彼女が気づくには十分な間だった。「……その服、よくお似合いですね」 澪は、少しだけ目を丸くした。「ありがとうございます。実は今日、買ったばかりなんです」 「今日ですか?」 「ええ。お店のサイトを見たら、思っていたよりずっと素敵な場所だったので。せっかくなら、少し雰囲気に合う服で行きたいなと思って」 話しながら、澪は自分が思っていた以上に楽しそうにしていることに気づいた。 悠臣は、それを見て微笑んだ。「それは、私としても嬉しいですね。お誘いした甲斐がありました」 「ふふ。お誘いいただいて、ありがとうございます」 「こちらこそ。今夜は、ゆっくり楽しんでいただければと思います」 彼はそれ以上、服について何かを言い重ねることはなかった。 けれど最初に向けられた言葉が、澪の胸に小さな温かさを残していた。 自分で選んだ服を、似合っていると言ってもらえた。 それだけのことが、こんなにも嬉しい。 悠臣は後部座席のドアを開け、澪に乗るように促す。小さく一礼して乗り込んだ後に悠臣も乗り込み、運転手に行き先を告げた。 車が静かに走り出す。 窓の外では、街の灯りが少しずつ増え始めていた。 *** 案内されたバーは、落ち着いた大人のための空間だっ
しばらくして、悠臣から返信が届いた。『そうでしたか。澪さんがご自身で決めたことなら、その決断を尊重します』 続けて、もう一通。『一区切りついたら、お祝いをさせてください。今夜、お仕事が終わったあとにバーへ行きませんか? もちろん、ご都合がよければ』 澪は画面を見つめた。 お祝い。 離婚を決めたことを、誰かと祝う。 そんなことを考えたこともなかった。 終わった結婚を悼むべきなのか。これまでの年月を無駄にしたと嘆くべきなのか。 けれど、澪が失ったものばかりを数える必要はないのかもしれない。 自分で決めたことなのだから。 これから先、自分の時間を何に使うのか。誰と過ごすのか。どんなことに喜びを感じるのか。 それを、今度こそ自分で選んでいい。 澪は、もう一度スマートフォンに指を滑らせた。『ありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください』 送信すると、ほどなくして悠臣から返信が届いた。『ありがとうございます。それでは、こちらのお店はいかがでしょうか』 続けて送られてきたのは、バーの公式サイトのリンクだった。 澪は何気なく画面を開き、思わず目を留めた。 落ち着いた照明に、磨き上げられたカウンター。窓の向こうには街の夜景が広がり、店内にはゆったりとした時間が流れているようだった。 想像していたよりも、ずっとおしゃれな場所だった。 仕事帰りに立ち寄る、気軽な居酒屋のような店を思い浮かべていた澪は、少しだけ戸惑った。 もちろん、服装に決まりがあるわけではないだろう。 それでも、せっかくなら――。 そう考えたところで、もう一通、悠臣からメッセージが届いた。『十九時にお迎えに上がります。お仕事の都合などで変更が必要でしたら、遠慮なくお知らせください』 澪は、画面を見つめながら小さく笑った。 迎えに来てくれる――たったそれだけのことなのに、胸の奥が少し弾んだ。 誰かと夜に出かける約束をして、その時間を楽しみに待つ。 そんな気持ちを、最後に味わったのはいつだっただろう。 智也と結婚してからは休日の予定も、食事の時間も、彼の都合を考えることが多かった。自分が何を着たいかよりも、どこへ行くのか、何をするのかよりも、相手に合わせることが先になっていた。 いつしか自分のために何かを選ぶことさえ、後回しになっていたのかもしれない。
智也は署名と捺印を済ませた離婚届を封筒に入れ、澪に渡すために連絡を取った。 返ってきたのは、会う日時と場所を伝える短い返信だった。 離婚したくないという気持ちは、まだ消えていない。 できることなら、もう一度やり直したい。これまでの失敗を認め、変わりたいと伝えることもできる。 けれど、自分の願いだけで澪の意思を縛ることはできない。 ようやく、そのことを受け入れ始めていた。 *** 指定されたのは、互いに落ち着いて話ができるホテルのラウンジだった。 約束の時間に到着した智也は、先に席に着いて澪を待った。 やがて現れた澪は、挨拶を交わすと、向かいの席に腰を下ろした。 智也は鞄から封筒を取り出し、テーブル越しに差し出した。「……署名と捺印は済ませた」 澪は「ありがとうございます」と短く答え、封筒を受け取った。 中の離婚届を確認し、そこに記された智也の名前を見ても、表情を大きく変えることはなかった。 驚きもない。安堵も、勝利感もない。 ただ、必要な手続きの一部として受け取っているように見えた。 智也は、彼女が本当に離婚を望んでいるのか、最後にもう一度だけ確かめたくなった。 しかし、澪の態度には迷いがなかった。「実はね、その離婚届を用意したのは、智也さんのお義母様なのよ」 思いがけない言葉に、智也は顔を上げた。「……母が?」 「ええ」 美佐子が澪に離婚届を渡していた。 智也は、今初めてその事実を知った。 母は、いつから離婚を考えていたのだろう。なぜ澪に、そんなものを渡したのか。 そして、そのとき澪は何を思ったのか。 自分の知らないところで、母と澪の間では話が進んでいた。妻がどれほど思い詰め、どこまで決意を固めていたのか、自分は何も知らなかった。 言葉が喉まで出かかった。 母が何を言ったのか、澪はどう答えたのか。問いただしたいことはいくつもあった。 けれど澪は美佐子を責めるために、その事実を伝えたのではなかった。「お義母様に言われたから、離婚を決めたわけではありません。私は、自分で決めました」 澪は、智也の目を見て告げた。「離婚したいという気持ちは、誰かに言われて生まれたものではありませんから」 智也は、何も言えなかった。 澪の決意は、一時の感情ではない。誰かに促されたからでも、勢いで口にしたことでもない。
琴葉には、与えたいと思った。 そして澪には、与える必要があるのか――。 こうして考えることによって、自分がしてきたことの違いが、今になってはっきりと見えてきた。「……大切だと思っていたよ」 智也は、ようやく答えた。「お前が喜ぶのは嬉しかった。昔から好きだった相手だから、力になりたいとも思っていた」 「だったら、どうして……」 「でも、それを理由にして、俺は何をしてもいいと思っていたのかもしれない」 琴葉は、黙り込んだ。「お前が望むものを与えることと、お前を大切にすることは、同じじゃなかった。それに……」 智也は、一度言葉を切った。「お前を特別扱いすることで、俺は自分が何をしているのか、見ないようにしていたんだと思う」 妻がいること。 琴葉との関係が、その妻を傷つけていること。 澪の願いを退けながら、琴葉には惜しみなく与えていたこと。 そのすべてを自分にとって、都合のいい理由で覆い隠してきた。 初恋だったから。 琴葉が喜ぶから。 自分も、彼女といる時間を大切に思っていたから。 けれど、どんな理由を並べても、澪を傷つけた事実は変わらない。 そしてこれ以上、琴葉を特別扱いし続けることも、もうできなかった。「それって……私が悪いっていうの?」 琴葉が、小さな声で訊ねた。「そういう話をしているんじゃない」 「じゃあ、どうして別れるなんて言うの? 私たち、ずっとお互いを想っていたじゃない。好き合ってるのにどうして?」 「想っていたからといって、続けていい関係じゃなかったんだ」 「智也くん……」 懐かしい呼び名を口にした琴葉は、膝の上に置いた両手を握りしめる。「俺には妻がいた。それなのに、お前との関係を続けた。お前が望むものを与えながら、澪の気持ちを考えなかった。それは、俺が選んだことだ」 琴葉の目に、涙が浮かんだ。「……奥さんのところに戻りたいの?」 その問いに、智也はすぐには答えられなかった。 澪とやり直したい。 その気持ちは、今もある。 けれど、澪が自分を受け入れてくれるとは限らない。むしろ、彼女はもう自分のもとへ戻るつもりがないとはっきり告げている。 それでも、琴葉との関係を続ける理由にはならなかった。「澪がどうするかと、俺が何を終わらせるべきかは、別の話だ」 智也は、静かに告げた。「俺は、自
澪がいない家に帰ることにも、少しずつ慣れていくはずだった。 仕事を終え、玄関の扉を開ける。明かりをつけ、上着を脱ぎ、誰もいないリビングを横切る。 それだけのことだ。 以前だって、澪がいつも自分を出迎えてくれたわけではない。仕事で帰りが遅くなれば、彼女は先に休んでいることもあった。 それでも、家の中には誰かがいるという気配があった。 食卓には、澪が用意してくれた食事が並んでいることがあった。仕事で疲れて帰れば、何気ない会話を交わすこともあった。 智也が仕事の話をすれば、澪は自分の手を止めて聞いてくれた。 時には、智也自身が気づいていなかった問題を指摘してくれることもあった。 あの頃の自分は、それを特別なことだとは思っていなかった。 妻なのだから、夫の話を聞くのは自然なことだ。家庭を整え、夫を支えるのも、結婚生活の一部なのは当然だ。 そんなふうに考えていた。 けれど、今になって思い返せば、澪はいつも自分の時間を使って、智也のために動いてくれていた。 彼女自身にも仕事があり、考えるべきことがあり、やりたいことがあったはずなのに。 智也は、そこまで考えたことがなかった。「……今更、か」 誰もいない部屋で、思わず呟く。 気づくのが遅すぎた。 そのことは分かっている。だからといって、すぐに諦められるわけではなかった。 澪と離婚したくない。 その気持ちは、今も変わっていなかった。 むしろ、彼女が自分のもとへ戻るつもりがないと知るほどに、失いたくないという思いが強くなっていく。 話し合えば、まだ何かできるのではないか。 自分が変われば、澪も考え直してくれるのではないか。 そう考えずにはいられなかった。 けれど、澪ははっきりと言った。 自分はもう、智也の妻でいることを望んでいない、と。 あのときの彼女の声が、今も耳に残っている。 怒鳴られたわけではない。泣かれたわけでもない。 ただ、決めたことを淡々と伝えられただけ。だからこそ、何も言い返せなかった。 以前なら、澪が自分の言葉に耳を傾けてくれることを疑わなかった。多少強引に話を進めても、最後には彼女が折り合いをつけてくれる。そう思っていた。 だが、今の澪は違う。 こちらの話を聞いたうえで、自分の意思を変えないと決めている。 智也がどれほどやり直したいと願っても、彼女に







